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私の持論 【性悪説】

せいぜん-せつ 【性善説】人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。正統的儒学の人間観。孟子の首唱。

せいあく-せつ 【性悪説】 人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とする説。孟子の性善説に対立して荀子が首唱。


人間は産まれた瞬間、本性は「悪」である。それは初めは無意識なものである。全てを欲し、全てを委ねる。その「悪」は親からすれば「宝」であり、本能的に守ってあげねばならない、かけがえのない「命」、それが「子」である。

「悪」として生を受けたその「子」は、欲を欲するがあまり、親を困らせる。親はその欲を満たす事が使命である。「子」の欲を満たす姿は「天使」である。その姿を垣間見る事が出来るのは親である。そしてその時間が親にとっての安楽の時間であり、親だけの特権である。

無意識であった「子」が意識と記憶を手に入れた時に、初めて「善」が芽生える。その芽はまだまだ小さく、成育が必要である。そこから「子」の中に芽生えた「善と悪」との戦いが始まる。そして親と共に「子」は「善と悪」を学習し、次第に「悪」の部分が薄れていき、大人となり、親となる。
これが私の考える性悪説である。

 
 
しかし、現代をみてみると、「善と悪」の区別もつかない人間が多数いる事に気付く。親になりきれない「悪」が子を産み、自分の欲を優先する。子が持つ欲を満たす事に嫌気をさし、その子は無意識の「悪」のまま命を断たれる。

親になるには学習が必要である。ここでいう学習とは「善と悪」を見極める学習である。躾とはまた違う。その学習で手に入れるモノは、「理性」である。その後に教育が必要となる。教育とは親による家庭での「道徳」である。そして躾というものは本来必要の無いものである。

この「道徳」とは個人個人バラバラであってはならない。己が考えた「道徳」には欲があり悪がある。その典型的な例が【日教組教育】である。本来身に付けなければならない「道徳」こそが【明治天皇陛下の教育勅語】に集約されている。

理性と道徳を手に入れた子は、相手を思いやる心、相手の気持ちに立てる心、相手の為に動ける心を持つ事が出来る。そして「善と悪」の狭間で経験を積み、大人となり親となるのである。
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