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皇紀二六七二年の新春を奉祝いたし、貴方様には謹んで新年のお慶びを申し上げます。日本統治の台湾「助けてくれた日本人の将校さん」、韓国「捏造従軍慰安婦の碑」、本年も宜しく御願い致します







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良識ある日本国民の皆様には、お健やかに新春をお迎えのことと存じます。

皇紀二六七二年の新春を奉祝いたし、貴方様には謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨年は格別の御厚情を賜りまして、ここに厚く御礼を申し上げ、本年もご指導、ご鞭撻の程を宜しくお願いいたします。

本年が貴方様にとって、日本国にとって、幸多き年となりますようお祈り申し上げます。

皇紀二六七二年 平成24年 元旦 財団法人・日本遺族会、近野滋之




東日本大震災発生により、世界各国から日本へ救助隊派遣や義捐金が贈られましたが、大東亜戦争終結まで同じ統治領(植民地ではない)だった韓国と台湾について、マスコミは韓国のことしか取り上げません。

台湾からは200億円を越える義捐金が贈られて、復興の支援にと訪日旅行もしていますが、一方の韓国は、在韓日本大使館前に捏造した従軍慰安婦の碑を設置するなど、上から目線で金をたかろうとしています。




私は一民族主義者として、真の日台友好を望む立場として、台湾による尖閣諸島・従軍慰安婦問題に抗議の記事を書いていますが、韓国が日本軍=極悪としていることが捏造だと証明するために、本日は、台湾統治時代の日本兵を簡単にご紹介させて頂きます。




助けてくれた日本人の将校さん

昭和20年の春、台湾南部を走る満員の汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まっている12、3歳の少女がいた。名は楊素秋(日本名:弘山貴美子)さん。

台南第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するための参考書などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布袋2つが両腕に痛いほど食い込んでくる。

隣に立っていた20歳ぐらいの日本人の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事をする気力も残っていなかった。将校さんが「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と言った。

ちょうど汽車は鉄橋にさしかかった所だった。鉄棒から片方の手を離して荷物を捨てた時、ゴーと鉄橋に渦巻く列車の轟音にハッとした楊さんは、左足をステップから外してしまった。「助けて」と叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって、意識を失ってしまった。

遠くで聞こえていた大勢のざわめきが、段々と近くなってきた。誰かが頬を叩いている。「気の毒にね。いたいけな子供が。顔が真っ青だよ。」「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな。」

気がついたら、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれていた。おばさんはニコニコしながら「ああ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、楊さんのおかっぱ頭を撫でた。

台南駅につくと、おばさんは楊さんを抱いて窓から外に出してくれた。窓の外には、あの将校さんが待ち構えていて、楊さんを抱き降ろした。

汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけた楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。下手をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに。

「あのう、、、お名前を教えていただけますか?」と楊さんが聞くと、将校さんはプッと吹き出し、「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰るんだよ」と将校さんは手を振って、汽車に乗り込んだ。

爽やかな笑顔だった。汽車が遠くかすんで見えなくなるまで、楊さんはそこに立ちすくんでいた。将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。

楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかった、と50年以上も悔やむことになる。生きている間にもう一度お会いして、お礼を言いたい、、、そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子供20人を預かって育てあげた。

あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に尽くす力も与えてくれたのだった。

自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしい

台南には日本陸軍の第2歩兵連隊が駐留しており、年に何回かある記念日には閲兵式があった。その行進の歩調は、イチニ、イチニとピッタリ揃っていて、沿道を埋め尽くした人々が、みな固唾を呑んで見とれていた。

ある日、演習があって、楊さんの家の前の木陰で休んでいた兵隊さんが立ち上がろうとした拍子に銃を落としてしまった。上官がそれを見て、兵隊さんに鼻血が出るまでビンタを張った。

ぶたれながらも兵隊さんは気を付けをしたまま、敬礼して「ありがとうございました」と言うだけだった。その敬礼は崩れず、実に格好良かった。

その様子を息をこらして見ていた楊さんは、子供心にも軍の厳しさを感じ取った。兵隊さんでだらしのない人は一人も見たことがなかった。自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしいのだと、楊さんたちは誇りにしていた。

昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる大社村という田舎に疎開した。そこにも日本の若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。

楊さんの母親は兵隊さんたちを自分の子供のように可愛がって、おやつやご飯をたくさん作って、たらふく食べさせた。満腹になって帰って行く兵隊さんたちには「明日もおいで」と声をかけた。

兵隊さんたちは、お礼代わりに、水汲みを手伝ってくれたり、また支給品の三角巾や薬を使わずに持ってきてくれた。

中には自分が使っていた立派な万年筆を楊さんの父親にあげようとして断られると、「お願いですから使って下さい」と半ば強引に置いていった兵隊さんもいた。

兵隊さんたちはお互いの間では「おい、こら」などと言っているのに、楊さんに向かうと「喜美ちゃーん」とニコニコしていた。子供にはとても優しかったのだ。

軍隊では時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは「はーい」と言って元気に家を飛び出す。5年生で小さな楊さんは周りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも肩車してもらうのだった。

(国際派日本人養成講座)抜粋
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog361.html



日本統治時代の台湾は「助けてくれた日本人の将校さん」と感謝をしていますが、韓国は捏造した従軍慰安婦の碑など反日国家で、平成24年は民主党政権倒閣・反日勢力根絶のために戦いましょう。

良識ある日本国民の皆様、拙いブログですが本年も宜しく御願い致します。

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転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘

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