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パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神


 

 
 

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良識ある日本国民の皆様には、南洋にあるパラオ共和国についてはご存知だと考えます。
 
今年も、桜の花が満開の時候になりましたので、昨年4月の「パラオの桜花」の記事に加筆をして、本日より2回に分けて記事を更新させて頂きます。
 
パラオ共和国と聞けば、「南洋の平和な島」とのイメージをお持ちの方は多いでしょうし、スキューバーダイビングなど観光スポットもあるので、毎年多くの日本人が訪れています。
 
在日パラオ共和国大使館・パラオ政府観光局によれば、年間約3万人の日本人観光客がパラオを訪れていて、日本からは、直行便で約4時間、グアム経由では乗り継ぎ時間を含めて約8時間で行けます。
 
また、パラオ共和国は「中華民国(台湾)」を国家として認めている、外交関係を持つ世界23カ国のうちの1カ国で、中華人民共和国を国家として認めていないために国交がありません。
 

 
パラオ政府観光局
 
有史以前のパラオについては未解明の状態ですが、近年の遺跡などの調査では、約4000年前から人が住んでいたと推定されて、1855年(明治18年)、パラオはスペインの植民地になりました。
 
スペイン人らによって天然痘などが持ち込まれたことや、植民地支配での略奪、殺戮などの結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。
 
1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却して、この中に、パラオも含まれていました。
 
ドイツの植民地になったパラオでは、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラ整備や、パラオの先住民への教育はほとんど行われませんでした。
 
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した日本は海軍を派遣して、ドイツ守備隊を降伏させてパラオを解放しました。
 
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」によって、パラオは日本の委任統治領になりました。
 
日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島になりました。
 
日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人約2千人も居住していました。
 
1920年代のパラオの町並みの写真を見ると、右側の店舗には、韓国・朝鮮人が1910年の日韓併合により奪われたと歴史を捏造している、ハングル文字の看板があります。
 

ハングルの看板
 
日本は統治時代にパラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校・病院・道路などのインフラの整備も重点的に行なって、首都のコロールは近代的な都市へと変貌されて行きました。
 

コロール
 
日本は、パラオの住民に疾病に対する予防接種を受けさせて、また、パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。
 

 
日本統治時代のパラオとは、それまでの白人による植民地時代とは違って、日本人の礼儀の正しさや、節度・道徳心、他民族を思いやる心など、日本人がパラオの住民から愛された時代です。
 
パラオには、「ペリリュー島」と言うパラオ諸島の中の島がありますが、南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた太平洋上の小島です。
 

 
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました。
 
1941年(昭和16年)、大東亜戦争が開戦されましたが、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)を完成していました。
 
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛圏上としても重要な拠点でした。
 
大東亜戦争で日本軍が劣勢の中で、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤でしたが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとっても、フィリピンの背後をとるペリリュー島の日本軍基地の攻略が必要でした。
 
1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーがフィリピン攻略をするためには、フィリピンの背後に位置する「ペリリュー島」を奪取しなければ戦況を有利に進めることは出来ませんでした。
 
米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇が海兵隊支援のために差し向けられました。
 
これらの米軍は、日本軍の兵力の約4倍・航空機200倍・戦車10倍・重火砲100倍以上の軍事力で、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していました。
 
ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊・高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000名でした。
 
すでに、制海権・制空権を手中に治めていた米軍は、攻撃は2~3日で終了すると楽観的な予測をしていて、9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせました。
 
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。
 

 
9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始しました。
 
圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定まで立てていました。
 
日本軍守備隊の抵抗は激しく、持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し、上陸戦は長期化しました。
 
戦闘が終局に達していた11月24日に、生き残った日本将兵はわずか60人足らずになり、ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたために、司令部は玉砕を決定しました。
 
守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による、万歳突撃が行われました。
 
そして、米軍が上陸完了をしたのは11月27日になり、日本軍は実に73日間にわたって、ペリリュー島を勇敢に死守したのです。
 
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした。
 

 
ペリリュー島には現住民が住んでいましたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでませんでした。
 
これは、ペリリュー島民は日本を尊敬していたので、大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていましたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならない、としていたからです。
 
戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させて、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していました。
 
「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名
 
この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っています。
 
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
 
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
 
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
 
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
 
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。
 
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
 
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
 
その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
 

 
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
 
老人のコラムについて、大東亜戦争終結後に、日本軍は悪かったと子供たちに洗脳教育をする教師と、パラオ島民の血を受け継ぐ生徒とのエピソードも残っています。
 
生徒 「俺のじいちゃんは、日本の兵隊に優しくしてもらったって言っていました。皆礼儀正しく、差別もしない人達だったって」
 
教師 「でも、酷いことも…」
 
生徒 「後から来た、アメリカの方が酷かったって言っていました」
 
教師 「貴方のような考えの人もいるかも知れないけど、それはごく一部で」
 
生徒 「ごく一部じゃ駄目なんですか?」
 
教師 「そういうことじゃなくて」
 
生徒 「俺のじいちゃんの国は凄く小さいです。他の国に比べれば全然重要じゃないかも知れないけど、日本人は、そんな国も大事にしてくれたって言っていました。戦争の時、仲良くした日本兵はみんな笑って出掛けて行って、誰も帰ってこなかったと言っていました。国旗も日本を真似ました。みんな、日本を尊敬しています」
 
 
桜花のごとく散った日本兵は、満開の桜にある靖国神社に英霊として祀られています。
 

 
大東亜戦争終結後の親日国パラオ、「パラオ・ペリリュー島の桜花」(2)も更新しますので、ぜひご訪問下さい。
 
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転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘

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